1979年の高校生時代に、渋谷のマニアックな輸入レコード屋(バイロイト)で、ヴァイオリンの神様であるハイフェッツの海賊盤を買ったのが運のつき、知らない作曲家の曲が入っており、一発で魅せられてしまい、人生が変わってしまった。その作曲家こそ「エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト」である。
今でこそ有名だが、とにかく、9歳の時に書いたカンタータを聴いたグスタフ・マーラーが「天才だ!」と叫び、神童作曲家としてウィーンで活躍するが、ユダヤ人だったため、ナチス・ドイツがオーストリアを制圧したためアメリカに亡命し、クラシック音楽の作曲を封印し、もっぱら映画音楽を書いていた。
ところが、これがハリウッドの映画音楽界に革命をもたらし、後のシンフォニックな映画音楽の先駆けとして、アカデミー作曲賞を受賞するなど、ハリウッド映画でも名声を確立した。ある曲は、後の「スターウォーズ」と酷似しており、作曲したジョン・ウィリアムズは、コルンゴルトの影響を受けた事を自白している。ところが...
戦後、映画音楽からクラシック音楽に戻ろうと、新作を携えてウィーンで初演するも、当時は、映画音楽は「低級な音楽」とされており、また、前衛音楽が幅を利かせていた当時、コルンゴルトの「後期ロマン派」的な作風は「時代遅れ」とされ、楽壇から抹殺されてしまい、不遇の中、60歳の生涯を終え、忘れ去られたままになっていた。
僕は、「コルンゴルトは絶対に素晴らしい作曲家である」という信念を持ち、執念で、最高傑作であるヴァイオリン協奏曲を1989年に日本初演し、これは、日本で最初に舞台で取り上げられたコルンゴルトの作品になった。
しかし、偏見の中で、桐朋で孤独にコルンゴルトを弾いていた頃、偉い先生たちから総スカンを食らう等、大変な苦労をし(江藤俊哉先生だけが理解者であった)、「名誉」は手にしたが、この苦労は今でも続いている。本当に、コルンゴルトを軽視した馬鹿な学者や評論家には、どんな名声を持った人であれ、僕は怒りと怨みの感情を禁じ得ない。「軽蔑」に値すると思うし、全ての業績をはく奪するべきだと思う。
日本初演から、もうすぐ四半世紀、その間の、僕の想像を絶する苦労は報われないのだろうか。
コルンゴルトの素晴らしさも見い出せず、僕の先見の明にも気づかず、僕の音楽人生を妨害しまくった挙句に滅茶苦茶にした、馬鹿な学者や評論家や教師には、死ね!!と言いたい。
さて、現在、コルンゴルトは名誉回復したが、日本では「プロは金にならないコンサートは企画しない」という現実は厳しく、ほとんどの名曲の日本初演はアマチュアによるもので、冒険的なアマチュアリズムには敬意を表するが、「プロによる本格的な名演」は、数えるほどしか無い。
そこで、まだ残っている名曲に「チェロ協奏曲」が有り、その日本初演を、桐朋で一緒だった、チェロの超絶的テクニシャンであり、日本音楽コンクールで優勝した山本裕康君に、Facebook で頼んだところ、彼が乗り気になってくれて、大反響になり、更にダメ押しで、桐朋で一緒で、ブザンソンの指揮者コンクールで優勝した沼尻竜典君に、Facebook で山本君へのプッシュを頼んだところ、何と、来年の、コルンゴルトの代表作であるオペラ「死の都」の舞台日本初演の「びわ湖」は、彼が振るとの事。こちらも大反響。
沼尻君によると、「びわ湖」の方が4日早いと、彼は「舞台日本初演」である事を、しきりに強調していた。彼の耳の良さ、音楽性、バトンテクニックは折り紙付きで、彼ならやってくれるだろう。彼も燃えていて、「日本の力を結集します」と、今から資料を集めて研究しているようである。
僕は浮かれてしまい、山本君や沼尻君の Facebook に、コメントをたくさん書いてしまったが、いずれにしても、先駆者(パイオニア)の苦悩を嫌と言うほど味あわされ、大変な苦労をさせられた作曲家コルンゴルトが、日本でもメジャーになった事は、僕としても、これ以上の喜びは無い。
「パイオニアという名誉」は得たが、他に得るものは何も無かった。しかし、今までの苦労を思い起こすと、コルンゴルトの名誉回復に、涙を禁じ得ない。
僕のコルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲日本初演は、録音を公開していますので、メインページで、是非お聴きください。