ヴァイオリンのように、数百年前に作られたものが、骨董品としてではなく、実用品として取引されている例は、他に無いのではないか。実際、新作よりもオールドの方が明らかに優れているから仕方がない。
まず、ヴァイオリンだが、1500年代に、イタリアのアンドレア・アマティによって、現在の形になった。これが元祖である。ただ、改良の余地は沢山あった。そして、1600年代、アンドレアの孫、ニコロ・アマティによって、初めて完成度の高いヴァイオリンが作られた。ニコロにはたくさんの弟子がおり、名人ばかりだが、その中に、アントニオ・ストラディヴァリがいた。
ストラディヴァリは、ニコロ・アマティの楽器をさらに改良し、1700年頃、究極のヴァイオリンを作り出し、これでヴァイオリンの進化は止まり、改良の余地が無くなった。そして、グァルネリ・デル・ジェスを唯一の例外として、その後、ストラディヴァリに匹敵するか、超えるヴァイオリンを作った人が一人もいないのである。工場生産品から手工品まで、無数のストラディヴァリのコピーが現在に至るまで作られているが、寸分違わず作っても、近い音が出る楽器すら無く、ストラディヴァリとは雲泥の差なのである。とにかく、元祖ストラディヴァリに匹敵する楽器は、唯一グァルネリ・デル・ジェスを除いて、一つも無い。日本では、赤穂浪士が討ち入りしていた頃である。
そして、さらに不思議な事に、ストラディヴァリをはじめとするイタリアの楽器は、独特の鼻にかかったような音色の艶を持っており、この音色はイタリアの楽器からしか出ない。これも謎で、この音色は、大オーケストラをバックにしても、オーケストラの大音響を突き抜けてホール全体に響き渡る。このため、イタリアの楽器は、他国の楽器と値段が一桁違う。そして、この音色は、イタリア人が作らないと出ないのである。
イタリアにはヴァイオリン製作学校が有り、世界中から生徒が集まるのだが、同じ材料で、同じ場所で、同じスタイルで楽器を作っても、イタリア人が作らないと、この音色が出ないのだから、これはもう摩訶不思議な謎としか言いようが無い。とにかく、イタリアの楽器は特別なのである。ストラディヴァリとグァルネリ・デル・ジェスは、現在では数億円で取引されている。僕は、18世紀のイタリアン・ヴァイオリンは、値段が高すぎてとても買えないので、19世紀最高の製作者のヴァイオリンを愛用している。
似たような事が弓にも言える。弓も色々な形を経て現在の形になったが、現在の形の弓を最初に作ったのは、18世紀後半に活躍したフランス人のフランソワ・トウルテという名人で、これが元祖である。そして、不思議な事に、現在に至るまで、この元祖フランソワ・トウルテに匹敵するか超える弓を作った人が、一人もいないのである。それも、少々の差ではなく、雲泥の差なのである。
トウルテに次ぐ弓としては、ドミニク・ペカットという事になるが、僕はトウルテを知らない頃にドミニク・ペカットの弓を入手した。店で弾いて、これ以上は考えられないと一目惚れして、躊躇なく購入した。性能には満足していた。ところが、ある日、ある店で、フランソワ・トウルテを弾く機会に恵まれたのだが、もう差は歴然。ショックを受けた。トウルテが別格である事が分かったのだが、残念ながら、この弓は売り物ではなかった。それ以来、トウルテを探す長い道のりが始まる事になる。
トウルテは別格としても、弓作りの名人は、フランス人ばかりである。特に、フランス人でヴァイオリン製作者兼商人のJ・B・ヴィヨームの工房で、優れた製作者が沢山輩出された。ヴァイオリンは、それなりに複雑な構造をしており、工夫の余地は有るが、弓は単なる木の棒であり、しかも材料は、ブラジル産のフェルナンビューコという木が最高で、どの国の製作者も、例外なくこの木を使って弓を作っている。しかし、フランス人が作らないと、良い弓が出来ないのである。
単なる木の棒だから、寸分違わぬものを作るのは簡単である。しかし、フランス人が作らないと、良い弓が出来ないばかりか、元祖フランソワ・トウルテを超える弓を作った人は一人もおらず、それも少々の差ではなく、雲泥の差なのである。さて、トウルテを探す旅に出た僕だが、遂に、フランソワ・トウルテの弓を手に入れた。もう素晴らしいとしか言いようがない。
話をまとめると、ヴァイオリンはイタリア、弓はフランス。これが最高で、作り方の秘密は謎。他国のものとは値段が一桁違う。今でも世界中のヴァイオリン製作者達や、弓の製作者達が、最高の楽器を作るために研究を続けているが、もはやヴァイオリンも弓も改良の余地が無く、お手上げといった状況である。オールド・イタリアン・ヴァイオリンと、オールド・フレンチ・ボウは、これからも最高の楽器として君臨を続けるであろう。
なお、イタリアのヴァイオリン、フランスの弓は、高く売れるため、偽物も多く、一説によると、本物の10倍は有ると言われている。ラベルを張り替えるなどマシな方で、最初から偽物として売るためにヴァイオリンや弓を作る落ちこぼれ贋作者も多いのでたちが悪い。弾いてみて真贋を判断できる高度な能力を持った人は別としても、そんな人は滅多にいない。楽器の世界は、どんなに高価であっても信用取引が原則であり、まずは借りて、少なくとも2週間くらいは使ってみて、間違いなく高性能で健康な楽器または弓である事を確認してから、買う決断を下すことになる。誰にでも貸してくれるわけではないが、まずディーラーと信頼関係を築く事が必要である。また、本物と称する楽器や弓には鑑定書が付いている場合が多いが、本当に信用できる鑑定家が書いた鑑定書でなければ、何の意味も無い。有名鑑定書の偽物や、贋作を売りつけるために偽の鑑定書を書く輩も多いから、油断も隙もない。鑑定書が何枚付いていても、偽物は偽物である。間違いない買い物をするためには、まず信用できる店を選ぶ事。日本にも悪徳業者が多いので注意。ある信頼できる楽器商の方によると、世界中の悪徳業者をリストアップしたブラックリストが有るらしい。見せてくれと頼んだのだが、「命有ってのものだね」という理由で、見せてくれなかった。店で楽器を物色する時は、鑑定書の信用性も含めて、その楽器や弓に関する詳しい説明を受ける事である。遠慮は不要である。説明を嫌がる業者は信用できない。楽器の知識が豊富で、扱っている楽器に自信が有れば、どんな質問にでも答えられる筈だからである。それで、借りて弾きこんで、間違いないと判断出来て、初めて買う決断を下すことになる。安価な買い物ではないから、くれぐれも慎重に、完全に納得できない場合は、買うのを控えた方が良い。納得がいったら買う事になるが、まずは楽器または弓を引き取り、後に銀行振り込みという形が一般的である。店としても、いきなり現ナマを持ち込まれると、銀行に預けるまでは生きた心地がしないようで、現物は先に渡す代わりに必ず振り込むという約束を守る事が大切で、それを繰り返すことにより、ディーラーとの信頼関係が構築されていくことになる。とにかく、少しでも納得がいかないものは買わない事。不自然に安いものは、安い理由を必ず訊く事。でないと、買った後で売る時に、愕然とする事になる。皆様が良い楽器を手にする事を祈っている。