子供の頃から江藤先生にヴァイオリンを教わる事は夢であった。紆余曲折あったが、桐朋のディプロマに合格し、僕は迷うことなく、江藤先生を希望した。幸い、先生のOKが出た。
最初のレッスンで、僕は、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲全曲を弾き、先生に絶賛された。もちろん弟子入りOK。これで喜んでいたのであるが、江藤先生は、その段階で、僕の長所から弱点まで、全てを見抜いておられたのである。
次の週のレッスンに張り切って行ったのだが、先生の態度が豹変しており、先生は他の仕事をしながら僕の演奏を聴いているのだが、ボウイングの違いや指使いの違いなど、一つたりとも見逃してくれない。そして、間違えた時の怒りの剣幕が半端ではない。なんて怖い先生なんだと恐怖心に苛まれた。それからも、次から次に技術的に難しい曲ばかり弾かされ、間違えると怒られる。これから数か月は苦しみの連続であった。
エルンストのエチュード(究極の難しい練習曲)を全曲上げた時、先生が言った。「フランクのソナタをやろう」。技術的に難しい曲ではない。気分が楽になったのだが、レッスンを受け続け、いよいよ仕上げという時に、もともと僕に向いている曲である事を先生は見抜いておられたようなのだが、それまでの苦しかったレッスンを思い起こし、弾きながら涙が出てきた。先生はゲラゲラと笑い、「お前何やってんだこのバカ」と言われ、その日のレッスンは終わった。
次の学校の授業で登校したのだが、みんなの僕を見る目が違う。明らかに変である。クスクスと笑っている人もいる。そしたら桐朋ディプロマ同期のY君が僕のところに来て、「時津さん、フランクのソナタで泣いたんだって!」。唖然。江藤先生は、あの僕が泣いたレッスンの後、来る弟子全てに「もっと感情をこめて弾きたまえ!時津君なんかフランクのソナタを弾きながら泣いたんだぞ!」と言いふらしていたらしい。これで僕は学校の有名人になった。その後も、江藤先生が教えてくれる奏法の素晴らしさに唖然としながら、怖いレッスンは続いて行った。
江藤先生は、国際的に通用する唯一の日本人教師であり、先生は、どんなヴァイオリニストとも、自分は同格だと思っていた。実力的にも、これは事実である。フランクのソナタをやる時に、僕はヘンレ版の楽譜を選んだ。校訂は神様メニューインであった。実際、メニューインの生でこの曲を聴き、感動した思い出も有るので、躊躇なくヘンレ版を選んだ。それで、楽譜に開放弦が指定されていたので、先生の前でそのとおりに弾いたのだが、先生が、「まさか!!」、「こんな大事な音を開放弦で弾くなんて、如何にも安易ですよ!!!」と激怒。僕が「でも..楽譜に書いてあるんです..」と言うと、「誰だその楽譜を校訂したのは?」、「メニューインです」と答えたのだが、普通の教師だと、ここで大ヴァイオリニスト、メニューインの指示を尊重するところなのだが、江藤先生は、「全く、メニューインの野郎とんでもないフィンガリング付けやがって!!」と怒りは収まらず、結局開放弦は否定された。こんな大ヴァイオリニストを一刀両断できる先生は、江藤先生しかいない。
そのうちにわかったのだが、先生はアメリカ流の合理主義者で、一定レベルをクリアしていれば、スケジュールさえ空いていれば、収入が増えるので弟子を受け入れる。しかし、レベルの低い生徒には楽しいレッスンをするだけで、決して怒らない。やっつけ仕事である。レッスン代はしっかり取る。先生が怒るという事は、愛弟子であるという証拠という事が、後にわかった。考えてみれば、怒るという事は、それだけエネルギーを消費するわけで、一日中怒りまくっていれば、とても体力が持たない。先生が、僕に本気で教えてくれていたことがわかり、嬉しくなった。
江藤先生の怒りで、今でも忘れられない事が一つある。僕のレッスン時間はいつもお昼頃だったのだが、たまたま先生は、いなり寿司を食べながらレッスンしていた。何をしながらレッスンしていようと、先生はかけらたりとも妥協なく僕のミスを聴き逃がさず怒る。本当に怖いが、いつもの事で、もう慣れっこだったのだが、難しい個所ならともかく、この時に限って、簡単などうでもいいような箇所で音を外してしまった。先生は口に含んでいたいなり寿司をブワッと吐き出し、あたりは米粒だらけ。かつてない剣幕で、「君ィ!駄目だよこんな簡単な所で音を外しちぁあ!!!!!」と怒鳴られた。これが、江藤先生のレッスンで、最も怖い思いをした経験であるが、今思い出すと、先生は命懸けで教えてくれていたのではないかと、今となっては涙ぐましい思い出である。
江藤先生は、日本では孤高の境地に達した先生であったため、敵も多く、悪口を言う人も多かった。しかしもちろん、江藤先生は、そんな戯言など意に介さず、ひたすら弟子を育てる事と自分の音楽活動に集中しておられた。ただ、一つだけ、江藤先生に関する噂で、許し難い全く根も葉もない噂が有るので、ここで明記しておく。それは「レッスンチケット」なるものの存在である。先生は生徒にチケットを高値で売り、それをレッスンのたびに一枚ずつ受け取っていたというのである。誰がこんな噂を最初に流したのかは知らないが、これは真っ赤なデタラメである。先生は、通常の一流教師と同じレッスン代しか取っていなかったし、チケットなど存在しない。僕の場合は桐朋の学生だったので、固定料金の学費さえ払えば、レッスン受け放題で、しかもディプロマは学費が安く、丸徳であった。全く低レベルな人間の戯言には呆れてしまう。
1987年、やっていた曲が終わり、先生「次何やる?」という言葉に、僕は勇気を出して、「コルンゴルトの協奏曲を弾きたいのですが」と言った。高校生時代に素晴らしさに目覚め、岸辺百百雄先生からは「知らない曲は教えられない」と、教える事を拒否された、しかし僕は名曲と信じる曲であった。そしたら先生はニヤリと笑い、「珍しい曲知ってるじゃん!」。こんなうれしそうな江藤先生を見た事は、かつて無かった。先生によると、先生は初演者でありヴァイオリンの神様であるハイフェッツの生でこの曲を聴き、曲の素晴らしさに目覚め、レパートリーにしたが、一度も頼まれず、舞台で弾いた事が無かった。それに、日本に帰ってからも、誰一人として教えていない。「君が最初だよ」との事。
先生は乗りに乗ってレッスンをしてくれていたのだが、その間、ショッキングなニュースが入ってきた。「ハイフェッツ死去」。僕も「神」の死にショックを受けた。そして次のレッスンに行ったのだが、先生は目があさっての方向を向いており、放心状態のように見えた。とりあえず弾きだしたが、先生は怒りもせず、数分で「はい、いいですよ。」と言って受講票にサイン。「え!もう終わり!?」と思っていたら、先生がポツリ。「ハイフェッツ死んじゃったねえ」。それからレッスン時間いっぱい使って先生のハイフェッツ談義が始まった。
ハイフェッツの素晴らしさの秘密を次から次に教えてくれた後(このハイフェッツの秘密は、ブログでも書けない江藤先生が僕だけに教えてくれた秘伝である)、「ハイフェッツは僕にとって神様だったんだよ。ヴァイオリンが弾けなくなっても、生きていてくれるだけで良かった。僕は人生の支えを失ってしまった。これからどう生きて行っていいかわからない」と言いながら、江藤先生は目に涙を浮かべて泣いていた。こんな純粋な先生の姿を見たのは、後にも先にもこの時だけである。先生は誰かとハイフェッツの話をしたくてたまらず、たまたまレッスンに行った僕が捕まったものだと思われる。
その後、桐朋ディプロマの年次試験でコルンゴルトを弾いたのだが、評価が真っ二つに割れてしまい、成績が悪かった。納得がいかないので、ヴァイオリンの先生たちに片っ端から電話したのだが、みんな良い成績を付けており、ヴァイオリンを知らない偉い先生たちが、とんでもなく悪い点を付けていたことが分かった。この時のヴァイオリンの先生たちの反応が面白い。やはり江藤先生は恐れ多いらしく、「江藤先生には、私は良い点付けました、と言っといてください」という先生が多かった。
江藤先生は激怒し、「バカな連中が変な点をつけやがって」と言われ、ここで僕に転機が訪れる事になる。先生が、「君の弾き方は岸辺君に習ったのだと思うが、悪い弾き方ではないから尊重してきた。しかし、これでは馬鹿な連中が変な点を付けるから、もっと聴衆にアピールする弾き方を教えてやるから、しばらく僕の言うとおりに弾いてみないか?」、僕は躊躇なく、「はい!お願いします」と答えた。
それからというもの、先生の教え方ががらりと変わった。僕が岸辺先生に教わったウィーン流の上品な弾き方は全て否定され、岸辺先生の前で時々かっこつけて弾くと、「そんな弾き方は巨匠になってやりたまえ!」と怒られていたような弾き方をすると、江藤先生は、「素晴らしい!、そんな風に弾けば馬鹿な連中が変な点を付ける事も無いだろう」といった具合で、天地がひっくり返った思いであったが、この弾き方こそ自分の弾き方であるという確信を得た。
そして、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲について、先生は、「これは絶対にいい曲だから、君が日本初演やりたまえ!」と言われた。僕は人生を賭けて、1989年に日本初演し、先生との約束を守った。これは日本で初めて舞台で取り上げられたコルンゴルトの作品となった。録音が残っており、ウェブでも公開しているが、この演奏がどのような評価を受けているのかはわからない。これから僕の人生がどう展開するかもわからない。しかし、コルンゴルトの協奏曲は文句なしの名曲である。ユダヤ人であったため、ウィーンからアメリカに逃れ、戦時中、いやいやながら映画音楽を書いたばかりに、「映画に魂を売った下等な作曲家」として楽壇から抹殺されていたが、現在では名誉回復して、20世紀を代表する作曲家の一人とされている。中でもヴァイオリン協奏曲は最高傑作とされている。僕は日本のパイオニアとして、いつか僕の業績が認められると信じている。
2006年のリサイタル直前、江藤先生が寝たきりになっているとの事で、お見舞いに行った。先生はベッドに横たわっており、奥様のアンジェラ先生が、「あなた!時津君よ」と江藤先生に声をかけると、先生は僕の方を向き、微笑んでくれた。これが江藤先生との最後のお別れになったのだが、会いに行って本当に良かった。
僕の真価を引き出してくれた江藤先生。どんなに感謝してもしきれない。こんなに凄い先生は、世界中にもいないのではないか。2008年、先生が亡くなられたらしいという電話が友達からかかってきた。数々の思い出を作ってくれた江藤先生。怖かった事、嬉しかった事など、全ての思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。
江藤先生への感謝の言葉は、とても言い切れない。本当に素晴らしい先生だった。先生が育てた無数の弟子たちは、現在の日本の楽壇をリードしている。こんなに凄い先生は、今後日本には現れないだろう。僕も先生の教えを後世に伝えていきたい。
最後に、江藤先生に教わった事は多いが、最後のレッスンで教えてくれた事について。江藤先生は、僕の音楽的感性を最大限に評価し、それを褒めちぎり、伸ばすだけ伸ばした後、最後のレッスンで、音楽を作る上で最も大切な事を教えてくれた。また、現在レッスンの友社から、江藤先生の、ボウイングやフィンガリングを書き込んだ楽譜が出版されており、これ自体は素晴らしい事だが、見てみると、江藤先生が一部の弟子だけにしか教えなかった秘伝は書かれていない。これでは出版自体は画期的ではあるが、江藤先生の奏法の一面が書かれているに過ぎない。これは、とてもブログでは書けないし、楽譜にも書きようが無いから仕方が無い。現在僕は、教える事はやっていないが、もしこの秘密が知りたければ、僕が教えるようになった後、僕に弟子入りしてください。出し惜しみするつもりは全く有りません。